私の生まれ故郷は高知県の土佐市である。国道56号線沿いの四方を山に囲まれた農村で育った。私の生家には今も両親が暮らしている。もっとも母は昨年ほとんど入院していたが。
私は正月には必ず帰省する。両親に孫を会わせるという目的もある。しかし最も大きな目的は墓参りだ。
私の田舎ではごく最近まで土葬であった。ひょっとしたら今も土葬が行われているのかもしれない。私の祖父母も土葬であった。だから別々の墓石がある。
私の祖母が亡くなったのは私が小学校2年生のときの冬であった。12月30日に息を引き取った。脳出血で倒れ、ほとんど意識が回復することなく2週間ほどで亡くなった。
祖母が倒れた日はとても寒い日であった。その日、祖母は近所の家の農作業を手伝いに出ていた。金柑採りの手伝いだった。作業中、畑で突然倒れたという。祖母は高血圧を患っていた。その日の寒さのために祖母の血圧は更に上がっていたのであろう。
一緒に農作業をしていた近所の人たちが祖母を家まで運んできてくれた。大急ぎで近所の医師を喚んだ。その医師は私の田舎で唯一人の医師であった。駆けつけてきてくれたその医師は横たわる祖母を無言で診察した後、私の両親に何かつぶやくように話した後、すぐに帰っていった。
それから祖母が亡くなるまでの間、少しでも祖母の容体が変化するたびに往診を頼んだ。私の母がつきっきりで看病していたが、私が祖母のそばにいくと遠ざかるようにと指示された。いま考えると、祖母の下の世話をしようとしていたのかもしれない。
祖母が元気だった頃、祖母と私の父親とは毎日のように家でけんかした。何が原因なのか幼い私にはわからなかった。激しいけんかであった。けんかの後、祖父母はよく離れの小屋に布団を敷いて寝た。その離れを我が家では「鳥小屋」と呼んでいた。当時、我が家ではその小屋で鶏を飼っていた。まさに本当の鳥小屋だった。その一角にあった3畳ほどの畳部屋に布団を敷いて寝た。私も祖父母の間に挟まって寝た。一度や二度のことではなかった。
私には怒っていた父親の顔しか思い出せない。父はいつも家族に対して激しく怒った。幼い頃、私は常に父を恐れていた。そんな父親ではあったが、祖母が亡くなった後は、長い間、祖母の死を悲しんだ。
私が小学校3年生になるまで我が家は藁葺き屋根であった。台風が来ると大きく家が揺れた。祖母は呪文を唱えるかのように「ほー、ほー」と大声でうなり声をあげた。柱は虫に食われており、いろりの煙のため家中煤だらけであった。私はいろりの側で祖父の膝の上によく乗った。私が膝に乗ると、祖父は火箸でいろりの灰に字を書いていくつかの漢字を私に教えてくれた。しかし祖父の書く漢字はいつも同じであった。祖父が好んで書いた漢字は、「松」と「杉」であった。
藁葺き屋根の家の隣の土地に新しい家が完成したのは祖母が亡くなった翌年の夏であった。その家が完成した夜、私と私の姉は、ふたりだけでまだ障子もない開けっぴろげの床の間で寝かされた。それはどうも当時の習わしであったらしい。家を建築中、完成した家を祖母に見せたかったと私たちの前で父は何度も悔やんでいた。
祖母は63歳であった。早すぎる死であった。祖父が亡くなったのはそれから18年後の昭和57年1月21日であった。
祖父の亡くなる前日、当時東京に住んでいた私は父親から電話をもらった。その時既に祖父は危篤状態であった。しかし父はそのことを私に告げなかった。医師国家試験を間近に控えていた私に心配をかけまいという父の配慮であった。
祖父の病状を知らされなかった私は、その日、友人の下宿にでかけて2泊した。しかし何故か落ち着かない。勉強しなくてはと思っても心が落ち着かないのだ。身体もだるく椅子に座っていることすらできなかった。理由がわからなかった。
私は友人宅から実家に電話をかけた。なんと祖父の葬儀の最中であった。電話に出た私の伯母は「いったいどこへいっていたのか」と私に叫び大声で泣いた。祖父の死を知った瞬間、身体の調子が戻った。あの体調の不良は私に祖父の死を知らせるシグナルであったのだ。
医師国家試験が終わるまで、私は結局、祖父の墓前で手を合わせることがなかった。このことはその後の私の人生に大きな影を落とすことになった。
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