今年の1月4日の夕方、息子が腹痛を起したことを先ほど書いた。午後6時すぎのことであった。
私の郷里は高知県である。私は国道56号線沿いの山村で生まれ育った。ここは年々過疎化が進む人口約3万人の市に属している。私たちは息子を実家から10数キロ離れたところにあるその市の市立病院に連れて行った。病院に着いたのは午後7時過ぎであった。
受付には4名の事務職員がいた。息子の年齢を告げると10歳以上の子供でなければ診察できないと言われた。息子は9歳である。待合室に掲げられている医師名簿を私は眺めた。産婦人科と小児科の欄には医師の名前が記させていなかった。つまりこの市立病院には常勤の産婦人科医と小児科医がいないのだ。
息子の様子から緊急の対応をお願いするほどではないと判断した私は、受付の職員に別の病院を紹介してくれるように依頼した。いろいろと調べてくれたあと紹介を受けたのは、その市立病院からさらに20キロ近く離れた高知市内の個人病院であった。午後8時までに行けば診察してくれるという。地図をコピーしてもらい、私たちは大急ぎでその病院に向かった。
私は紹介を受けたその個人病院の近くの高校を卒業した。したがってある程度土地勘はあった。しかし卒業して30年あまり経過しており、道路も周囲の風景も大幅に変化していた。道路標識もあまりない暗い道を地図だけを頼りに車で走るのは少なからず不安であった。途中、2度、通行人に道を尋ね、その病院にも電話をかけたうえ、やっとその病院にたどり着いたの午後8時間際であった。
診断は単なる食べすぎということであった。私たちがその個人病院の近くで薬を受け取り帰宅の途についたときには息子はすでに腹痛を訴えなくなっていた。
嬉しかったのは、大した病気ではなかったにもかかわらず、その当直医が親切に診察してくださったことである。私たちがその日の午後に貝料理を食べた店もその医師は知っており、話がはずんだ。
親が子の病気を心配するのは当然のことである。当直の小児科医がまだ起きている時間帯に息子を受診させることができ、患者としての医師に対する最低限のモラルが守れたことにほっとした。
帰宅途中、車の中から家内が私の両親に電話した。電話の向こうで私の父は「おお、くつろいだ」と言ったという。「くつろいだ」とは土佐弁で、「ほっとした」、「安堵した」という意味である。
2008年1月15日火曜日
田舎に帰りて
今年の正月、高知の実家に帰省中、息子が腹痛を起した。1月4日の夕方であった。腹痛が起きる前に私たちは家族で貝を食べに出かけていた。ひょっとしたら食中毒なのかもしれないと思ったが、食事からすでに3時間が過ぎていた。息子の顔色もわるくなかったし、吐き気や体のしびれ、下痢などもないという。大したことはないだろうと思ったが、夜にならないうちに病院を受診させることにした。
私たちは、息子の体の具合がわるいときには、夜遅くならないうちに病院に連れて行くことにしている。それは私自身が医師であるからである。
私が当直することはもうない。しかし当然のjことながら若いころには定期的に当直当番が回ってきた。救急患者は当然診察しなければならない。しかし腹が立つことも稀ではなかった。
例えば夜中に受診した患者にいつから具合が悪かったのかと尋ねると、3日前からだと言われたことがある。なぜ昼間に受診しなかったのかと訊くと、夜のほうが待たなくてすむからだという返事が返ってきた。病気は応急処置を必要とするものではなかった。
こんなこともあった。夕方に30歳代の男性から電話がかかってきた。息子が耳が痛いと言っているが大丈夫かという問い合わせであった。病状からはおそらく急性中耳炎だろう、大事に至ることはないだろうが受診してくれるならば診察しますと私は答えた。そうしたらその男性は私に対して「絶対大丈夫ですか」と詰め寄った。私は診察してみなければ「絶対」とはいえないと言い、再度、息子さんを受診させてくださいと頼んだ。しかしその男性は息子さんを病院に連れてくるのが面倒くさいらしく、どうしても病院を受診するといわない。「絶対に大丈夫ですか」、「受診してくださらなければ絶対とはいえません」、この言葉の投げあいになった。最後にその男性は私に対して「てめえの名前はなんというんだ! 訴えてやる!」とさんざん私に毒づいた挙句、自分の名前すら名乗らないまま一方的に電話を切った。
この男性は、その約1週間後、私の当直日に再度電話をかけて寄こした。夜中の2時であった。「家内の耳を吸っていたら耳から血が出てきた。大丈夫でしょうか。」 寝ぼけていた私は、その男性の質問の意味がすぐにはつかめなかった。このときもこの男性は奥さんを受診させることはなかった。しかし低姿勢ではあった。
当直していると夜中に頻繁に電話で起こされる。さながら電話相談室である。電話相談を受けて医療費を払ってくれる患者はまずいない。無料奉仕である。電話を切る前に「これから1時間ほどで受診します」と言っていても受診してこない患者も多い。その間、当直医は寝ないでその患者の到着を待っているのだ。
日本では当直しても翌日、通常勤務しなくてはならない。36時間労働である。当直明けに手術予定が入っていることもごく普通のことである。医療現場のこの過酷な実態をどれほどの方々が知っていてくれているのであろうか。
私たちは、息子の体の具合がわるいときには、夜遅くならないうちに病院に連れて行くことにしている。それは私自身が医師であるからである。
私が当直することはもうない。しかし当然のjことながら若いころには定期的に当直当番が回ってきた。救急患者は当然診察しなければならない。しかし腹が立つことも稀ではなかった。
例えば夜中に受診した患者にいつから具合が悪かったのかと尋ねると、3日前からだと言われたことがある。なぜ昼間に受診しなかったのかと訊くと、夜のほうが待たなくてすむからだという返事が返ってきた。病気は応急処置を必要とするものではなかった。
こんなこともあった。夕方に30歳代の男性から電話がかかってきた。息子が耳が痛いと言っているが大丈夫かという問い合わせであった。病状からはおそらく急性中耳炎だろう、大事に至ることはないだろうが受診してくれるならば診察しますと私は答えた。そうしたらその男性は私に対して「絶対大丈夫ですか」と詰め寄った。私は診察してみなければ「絶対」とはいえないと言い、再度、息子さんを受診させてくださいと頼んだ。しかしその男性は息子さんを病院に連れてくるのが面倒くさいらしく、どうしても病院を受診するといわない。「絶対に大丈夫ですか」、「受診してくださらなければ絶対とはいえません」、この言葉の投げあいになった。最後にその男性は私に対して「てめえの名前はなんというんだ! 訴えてやる!」とさんざん私に毒づいた挙句、自分の名前すら名乗らないまま一方的に電話を切った。
この男性は、その約1週間後、私の当直日に再度電話をかけて寄こした。夜中の2時であった。「家内の耳を吸っていたら耳から血が出てきた。大丈夫でしょうか。」 寝ぼけていた私は、その男性の質問の意味がすぐにはつかめなかった。このときもこの男性は奥さんを受診させることはなかった。しかし低姿勢ではあった。
当直していると夜中に頻繁に電話で起こされる。さながら電話相談室である。電話相談を受けて医療費を払ってくれる患者はまずいない。無料奉仕である。電話を切る前に「これから1時間ほどで受診します」と言っていても受診してこない患者も多い。その間、当直医は寝ないでその患者の到着を待っているのだ。
日本では当直しても翌日、通常勤務しなくてはならない。36時間労働である。当直明けに手術予定が入っていることもごく普通のことである。医療現場のこの過酷な実態をどれほどの方々が知っていてくれているのであろうか。
2007年7月13日金曜日
立会い出産は感動的なのか?
山口意友氏の著書である”反「道徳」教育論”(PHP新書)の中に「立会い出産は感動的なのか?」という一章がある。
私自身は妻の出産に立ち会わなかった。息子の生まれた日がたまたま祭日であったため妻の出産時に同じ病院内にはいたが、息子が生まれようとしていたその時間帯に私は妻の病室のベッドの上で居眠りをしていた。息子が生まれたあと助産婦さんからもらった電話で目が覚めた。多くの女性からは「女の敵」と罵られるかもしれない。私は妻の出産に立ち会いたいとは思わなかった。より正確には、立ち会いたくないと思っていた。
山口氏は私が漠然と感じていたことを極めて高い見地から実に論理的に説明してくれていた。山口氏の考えは”感動的なのは生命の誕生という「事象」であってその「シーン」ではない”ということに要約される。また氏は「女性の美学」という視点からも立会い出産に否定的な意見を述べている。氏の主張にはうなずかされる部分が多い。
時代が変わったといえど、出産と育児が多くの女性にとって人生の中で最も大きな関心事であることにはかわりがないであろう。しかし男は出産と育児に女性ほどの関心を持つことができない。これは男としての宿命である。夫が妻の出産と育児に関心を寄せるのは、出産と育児に対する直接の関心や心配によるというよりも、むしろ妻や子に対する夫のおもいやりの結果であると考えるのが自然ではなかろうか。
男と女とは平等である。しかしどんなに声高に男女平等を叫んでも男性と女性とは同じにはなれない。男は男らしく、女は女らしく振る舞うことこそ、男性が女性に、そして女性が男性に美を感じ異性の存在価値を認めあう近道ではなかろうかと私は思う。
私自身は妻の出産に立ち会わなかった。息子の生まれた日がたまたま祭日であったため妻の出産時に同じ病院内にはいたが、息子が生まれようとしていたその時間帯に私は妻の病室のベッドの上で居眠りをしていた。息子が生まれたあと助産婦さんからもらった電話で目が覚めた。多くの女性からは「女の敵」と罵られるかもしれない。私は妻の出産に立ち会いたいとは思わなかった。より正確には、立ち会いたくないと思っていた。
山口氏は私が漠然と感じていたことを極めて高い見地から実に論理的に説明してくれていた。山口氏の考えは”感動的なのは生命の誕生という「事象」であってその「シーン」ではない”ということに要約される。また氏は「女性の美学」という視点からも立会い出産に否定的な意見を述べている。氏の主張にはうなずかされる部分が多い。
時代が変わったといえど、出産と育児が多くの女性にとって人生の中で最も大きな関心事であることにはかわりがないであろう。しかし男は出産と育児に女性ほどの関心を持つことができない。これは男としての宿命である。夫が妻の出産と育児に関心を寄せるのは、出産と育児に対する直接の関心や心配によるというよりも、むしろ妻や子に対する夫のおもいやりの結果であると考えるのが自然ではなかろうか。
男と女とは平等である。しかしどんなに声高に男女平等を叫んでも男性と女性とは同じにはなれない。男は男らしく、女は女らしく振る舞うことこそ、男性が女性に、そして女性が男性に美を感じ異性の存在価値を認めあう近道ではなかろうかと私は思う。
2007年7月6日金曜日
医師の偏在
昨日、懐かしい友人が訪ねてきた。彼とは電話で話したことは何度かあったが、直接会うのは十数年ぶりであった。1時間あまりお互いの近況について話した。この十数年間の間に彼は私よりも遥かに多くの人生経験を積み、人間としても歯科医としても実に魅力的な男になっていた。
彼と話している最中に彼が鞄の中からカバーをかけた本をとり出し、私に差し出した。私にくれるという。なんと彼は、私のブログを読んでいるということであった。私のそのブログの内容から、きっと私もこの本に興味を持つだろうと彼は言った。彼が私に手渡したのは、「奪われる日本」(関岡英之:著、講談社現代新書)という本であった。彼は著者の関岡氏と面識があるということであった。
この「奪われる日本」は、全体が小泉改革に対する反対意見で貫かれている。
確かに小泉改革は大きな歪みを日本にもたらした。私の生まれ故郷は高知であるが、実家に帰るたびにさびれていく故郷の姿に心を痛めている。お産もできなくなった。いまは地方の多くの地域が医師不足に苦しんでいる。
「医療の無駄をなくす」という議論は一見もっともに思える。しかし、医療には無駄な部分も必要である。小さな島にも医療機関は必要とされる。人口の少ない寒村にも医師は必要であろう。これらの地域からはどんどん医療機関が消えている。経済原理という視点だけからいえば、おそらく「医療の無駄をなくす」正しい方向なのであろう。
若い研修医たちもどんどん田舎から去っている。この契機となったのは臨床研修制度の「改革」である。若い研修医は大都市圏や先端医療設備を誇る民間病院に殺到、研修後も大学の医局には戻らない。特に地方の大学病院や公立病院の医師不足は深刻である。そのしわ寄せは地方に残った医師の肩に重くのしかかっている。過労で倒れたり、耐えきれず離職するケースも増えている。脳神経外科医、産婦人科医、小児科医の希望者も激減しているという(「奪われる日本」より)。
医療にはどうしても無駄が出てくる。今のままの「医療改革」は医療を受けることのできない国民を増やし、持てるものと持たざるものとの格差を医療の分野でも更に広げていくだけの結果しか生まないのではないかと私は危惧している。医療には、必要な無駄があるのではなかろうか。
彼と話している最中に彼が鞄の中からカバーをかけた本をとり出し、私に差し出した。私にくれるという。なんと彼は、私のブログを読んでいるということであった。私のそのブログの内容から、きっと私もこの本に興味を持つだろうと彼は言った。彼が私に手渡したのは、「奪われる日本」(関岡英之:著、講談社現代新書)という本であった。彼は著者の関岡氏と面識があるということであった。
この「奪われる日本」は、全体が小泉改革に対する反対意見で貫かれている。
確かに小泉改革は大きな歪みを日本にもたらした。私の生まれ故郷は高知であるが、実家に帰るたびにさびれていく故郷の姿に心を痛めている。お産もできなくなった。いまは地方の多くの地域が医師不足に苦しんでいる。
「医療の無駄をなくす」という議論は一見もっともに思える。しかし、医療には無駄な部分も必要である。小さな島にも医療機関は必要とされる。人口の少ない寒村にも医師は必要であろう。これらの地域からはどんどん医療機関が消えている。経済原理という視点だけからいえば、おそらく「医療の無駄をなくす」正しい方向なのであろう。
若い研修医たちもどんどん田舎から去っている。この契機となったのは臨床研修制度の「改革」である。若い研修医は大都市圏や先端医療設備を誇る民間病院に殺到、研修後も大学の医局には戻らない。特に地方の大学病院や公立病院の医師不足は深刻である。そのしわ寄せは地方に残った医師の肩に重くのしかかっている。過労で倒れたり、耐えきれず離職するケースも増えている。脳神経外科医、産婦人科医、小児科医の希望者も激減しているという(「奪われる日本」より)。
医療にはどうしても無駄が出てくる。今のままの「医療改革」は医療を受けることのできない国民を増やし、持てるものと持たざるものとの格差を医療の分野でも更に広げていくだけの結果しか生まないのではないかと私は危惧している。医療には、必要な無駄があるのではなかろうか。
2007年6月27日水曜日
セカンドオピニオン
私は12年ほど前からある大手銀行の健康管理センターに週一回でかけている。
今年の初め、そこに40歳代の女性患者が私の外来に訪れた。その患者はその健康管理センターで診療を受ける資格がないが特別にその日1回だけ診察してくれるようにと看護師から依頼された。ただし投薬はしないようにと止められた。その銀行は複数の健康管理センターを持っており、社員の職場によってどの健康管理センターを受診してよいかが決められている。
その女性患者が話したことは以下のようなことであった。
数年前からその会社の別の健康管理センターにかかっている。メニエール病と診断されてずっと投薬を受けているが、一向に浮動性めまいが改善しない。難聴、耳鳴、耳閉感などの蝸牛症状はない。また回転性めまい発作が生じることもない。
当日行った純音聴力検査でも難聴は認められなかった。
私はその患者に次のように告げた。
1回の診断だけで確定診断を下すことは困難であるが、きょうの時点ではメニエール病であることを積極的に示唆する病歴、検査所見などは認められない。この健康管理センターではこれ以上の診察はできないので、引き続き、今までかかっていた担当医によく相談するように。
私がこのように告げると、その患者はぽつりと次のように言った。
「えっ。これまでメニエール病と言われてずっと治療を受けてきたのに。」
私は何も言わなかった。患者はそれ以上何も言わずに診察室から出ていった。
私はこの患者のことをしばらく忘れていた。
そんなある日、私との契約更新を打ち切るとの通達が私の上司を通じて銀行から伝えられた。しかし1か月待ったが銀行から私に対する直接の通達はなかった。
契約更改の時期が近づいてきたので、私からその健康管理センターの所長を訪問して事情を尋ねた。
私との契約を更新しない理由として最初に所長の口から出てきたのはこの患者のことであった。この患者から私に対する苦情が届いたというのだ。しかしどのような苦情かは所長は言わなかった。どうも所長自身も理解できなかったようだ。所長は乱暴な言葉遣いで次のように私に告げた。
「社員から苦情が出ただけで負けなんだよ。事情はどうあろうと関係ない。」
確かに所長からはその患者の苦情に対して私の考えを質されたことは一度もなかった。
今年の初め、そこに40歳代の女性患者が私の外来に訪れた。その患者はその健康管理センターで診療を受ける資格がないが特別にその日1回だけ診察してくれるようにと看護師から依頼された。ただし投薬はしないようにと止められた。その銀行は複数の健康管理センターを持っており、社員の職場によってどの健康管理センターを受診してよいかが決められている。
その女性患者が話したことは以下のようなことであった。
数年前からその会社の別の健康管理センターにかかっている。メニエール病と診断されてずっと投薬を受けているが、一向に浮動性めまいが改善しない。難聴、耳鳴、耳閉感などの蝸牛症状はない。また回転性めまい発作が生じることもない。
当日行った純音聴力検査でも難聴は認められなかった。
私はその患者に次のように告げた。
1回の診断だけで確定診断を下すことは困難であるが、きょうの時点ではメニエール病であることを積極的に示唆する病歴、検査所見などは認められない。この健康管理センターではこれ以上の診察はできないので、引き続き、今までかかっていた担当医によく相談するように。
私がこのように告げると、その患者はぽつりと次のように言った。
「えっ。これまでメニエール病と言われてずっと治療を受けてきたのに。」
私は何も言わなかった。患者はそれ以上何も言わずに診察室から出ていった。
私はこの患者のことをしばらく忘れていた。
そんなある日、私との契約更新を打ち切るとの通達が私の上司を通じて銀行から伝えられた。しかし1か月待ったが銀行から私に対する直接の通達はなかった。
契約更改の時期が近づいてきたので、私からその健康管理センターの所長を訪問して事情を尋ねた。
私との契約を更新しない理由として最初に所長の口から出てきたのはこの患者のことであった。この患者から私に対する苦情が届いたというのだ。しかしどのような苦情かは所長は言わなかった。どうも所長自身も理解できなかったようだ。所長は乱暴な言葉遣いで次のように私に告げた。
「社員から苦情が出ただけで負けなんだよ。事情はどうあろうと関係ない。」
確かに所長からはその患者の苦情に対して私の考えを質されたことは一度もなかった。
2007年1月27日土曜日
応召義務
医師には応召義務が課せられている。「応召義務」とは、保険のきく医療機関では診察を拒むことができないというものである。
しかしこの規定には一種の「制度疲労」が生じてきていると考えざるを得ない。
最も大きな問題は救急医療である。昨年、ある県において救急患者が10数か所の医療機関から受け入れを拒否されたあげく、最後にその患者を受け入れた病院で死亡したことが大きく報道された。その患者を受け入れた病院に対する報道は極めて冷淡であった。
少なくとも救急患者に対しては「応召義務」が守られているとは言い難いのが実情である。将来、救急患者の受け入れを拒否する医療機関はますます増加していくであろう。
救急患者の受け入れを断る医療機関の事情はさまざまである。空きベッドがない、専門医がいない、専門医が手術中である、など・・・。
その一方で、救急とはよべない患者が救急外来を賑わしているという現実がある。
夜中の2時に耳鳴りの患者が受診した。いつから耳鳴りがするのかと尋ねると、2年前からだとその患者は答えた。また夜明けにのどの痛みを訴える患者に電話で起された。事情を尋ねると3日前からのどが痛かったという。
多くの患者は、自分の不安感が取り除かれれば、医療機関を受診することはない。いまの救急外来は実質的に無料の医療相談室になっている。電話を切った後、患者が医療費を支払うことはない。
私が当直の日、夕方にある患者から電話がかかってきた。30歳代と思われる男性からであった。娘が耳が痛いと言い始めた、そうすればいいかという問い合わせであった。私は、おそらく急性中耳炎でしょうと答えた。そして痛みはまもなく治まってくるでしょうが、ご心配であれば診察させたいただきますので受診してくださいと話した。
しかしその男性は、娘を連れてくるとは言わない。「このまま様子をみていても100%大丈夫ですか」という言葉を繰り返すばかりだ。私は、「診察していない状況でははっきりしたことは申し上げられないので、ご心配ならば病院にいらしてください」と何度も繰り返した。しかし「絶対大丈夫ですか」と言いやめない。押し問答のあげく、その男性は「てめえの名前は何というんだ」と大声をあげた。私は自分の名前を名乗った。しかしその男性が自分の名前を私に告げることはなかった。その男性は散々私に毒づいた揚げ句、電話を切った。娘を連れてくることはなかった。むなしい30分間であった。
その1週間後、私が再度当直している晩の午前2時に同じ男性からまた電話が入った。寝ぼけていて最初私はその男性が何を言っているのかわからなかった。何度か繰り返して事情を尋ねてやっと理解できた。「家内の耳を吸っていたら耳から血が出てきた。大丈夫でしょうか。」この男性は神妙な口調で私に尋ねた。「鼓膜が破れた可能性もないことはないでしょうが、聞こえさえわるくなければ、おそらく朝になって病院にいらしても大丈夫でしょう」と私は答えた。この男性は事が事だけに恥ずかしかったのか、その晩は大人しく電話を切った。妻を受診させることはなかった。その後、私は眠ることができなかった。そのまま翌日のフル勤務をこなした。
「応召義務」を負っている医師に対して患者はモラルを無視してもいいのであろうか。患者の家族であれば医療従事者にどんな罵声を浴びせても許されるのか。
医療現場では患者による院内暴力のために休養を余儀なくされる医療従事者がひきもきらない。
しかしこの規定には一種の「制度疲労」が生じてきていると考えざるを得ない。
最も大きな問題は救急医療である。昨年、ある県において救急患者が10数か所の医療機関から受け入れを拒否されたあげく、最後にその患者を受け入れた病院で死亡したことが大きく報道された。その患者を受け入れた病院に対する報道は極めて冷淡であった。
少なくとも救急患者に対しては「応召義務」が守られているとは言い難いのが実情である。将来、救急患者の受け入れを拒否する医療機関はますます増加していくであろう。
救急患者の受け入れを断る医療機関の事情はさまざまである。空きベッドがない、専門医がいない、専門医が手術中である、など・・・。
その一方で、救急とはよべない患者が救急外来を賑わしているという現実がある。
夜中の2時に耳鳴りの患者が受診した。いつから耳鳴りがするのかと尋ねると、2年前からだとその患者は答えた。また夜明けにのどの痛みを訴える患者に電話で起された。事情を尋ねると3日前からのどが痛かったという。
多くの患者は、自分の不安感が取り除かれれば、医療機関を受診することはない。いまの救急外来は実質的に無料の医療相談室になっている。電話を切った後、患者が医療費を支払うことはない。
私が当直の日、夕方にある患者から電話がかかってきた。30歳代と思われる男性からであった。娘が耳が痛いと言い始めた、そうすればいいかという問い合わせであった。私は、おそらく急性中耳炎でしょうと答えた。そして痛みはまもなく治まってくるでしょうが、ご心配であれば診察させたいただきますので受診してくださいと話した。
しかしその男性は、娘を連れてくるとは言わない。「このまま様子をみていても100%大丈夫ですか」という言葉を繰り返すばかりだ。私は、「診察していない状況でははっきりしたことは申し上げられないので、ご心配ならば病院にいらしてください」と何度も繰り返した。しかし「絶対大丈夫ですか」と言いやめない。押し問答のあげく、その男性は「てめえの名前は何というんだ」と大声をあげた。私は自分の名前を名乗った。しかしその男性が自分の名前を私に告げることはなかった。その男性は散々私に毒づいた揚げ句、電話を切った。娘を連れてくることはなかった。むなしい30分間であった。
その1週間後、私が再度当直している晩の午前2時に同じ男性からまた電話が入った。寝ぼけていて最初私はその男性が何を言っているのかわからなかった。何度か繰り返して事情を尋ねてやっと理解できた。「家内の耳を吸っていたら耳から血が出てきた。大丈夫でしょうか。」この男性は神妙な口調で私に尋ねた。「鼓膜が破れた可能性もないことはないでしょうが、聞こえさえわるくなければ、おそらく朝になって病院にいらしても大丈夫でしょう」と私は答えた。この男性は事が事だけに恥ずかしかったのか、その晩は大人しく電話を切った。妻を受診させることはなかった。その後、私は眠ることができなかった。そのまま翌日のフル勤務をこなした。
「応召義務」を負っている医師に対して患者はモラルを無視してもいいのであろうか。患者の家族であれば医療従事者にどんな罵声を浴びせても許されるのか。
医療現場では患者による院内暴力のために休養を余儀なくされる医療従事者がひきもきらない。
医療情報の公開
数か月前になろうか、いやもっと前かもしれない。ラジオの電源を入れた際に、ある大学医学部の教授が 我が国における医療機関の治療成績が開示されていない状況を批判しているのを、偶然、聴いた。NHKのラジオ番組であったように思う。
その大学教授は、番組の中ではっきりとは言わなかったが、日本の医療機関が治療成績をインターネットなどで公開しないのは怠慢であるという考えを持っているように私には思われた。その教授は、アメリカでは各医療機関がしっかりと治療成績をインターネットで公開していることを引き合いに出していた。日本の医療機関が病気の治療成績を積極的に出そうとしないのはなぜなのかという点について私が納得できるような説明はこの教授の口からは聞かれなかった。
この教授は、病院管理学や病院経営学などを専攻している学者であった。私に言わせれば、この教授は果たして我が国における医療現場の実態をきちんと理解しているのであろうか。
アメリカの病院が積極的に治療成績をインターネットなどで発表するのは、それに対する見返りがあるからである。我が国では少なくとも医師個人にはほとんど見返りはない。特に勤務医にとってはよけいな仕事が増えるだけである。
インターネットで優れた治療成績を発表したとしよう。それを見た患者がその医師の診察を受けるためにどっとおしかけるであろう。患者は治療成績のいい病院または医師にしか興味を持たない。
我が国では、どんなに優れた技術を有する医師が診察しても手術をしても、その料金は医者になりたての研修医と同じである。患者が増えたとしても、給与の面で見返りがあるわけではない。患者の待ち時間は長くなり、看護婦は患者からの苦情の対応に追われる。3時間待ちの3分診療が5時間町の3分診療になるだけのことである。
医師とて人間である。疲れる。睡眠も必要である。時間に追われながら数時間休みなく続く今の病院での外来診療はあまりにも酷である。看護師には昼休みをとる権利が認められているが、医師にはそのような権利は認められていない。
優れた技術を有する医師が報われる制度を構築しない限り、我が国における医療の将来は暗い。医師のモラルだけに頼ろうとする現在の我が国の風潮を私は憂える。
[追記]
インターネットは、医療機関が独自に公開している治療症例数や手術死亡率などの情報を入手する有力な手段となっている。医療法は、治療成績や医師の略歴、病院の治療方針、経営実績などを広告することを禁じている。インターネットや書籍は「利用者の自発的な意思により検索してみるもの」であることを理由として、医師法の広告規制の適用外になっている。
その大学教授は、番組の中ではっきりとは言わなかったが、日本の医療機関が治療成績をインターネットなどで公開しないのは怠慢であるという考えを持っているように私には思われた。その教授は、アメリカでは各医療機関がしっかりと治療成績をインターネットで公開していることを引き合いに出していた。日本の医療機関が病気の治療成績を積極的に出そうとしないのはなぜなのかという点について私が納得できるような説明はこの教授の口からは聞かれなかった。
この教授は、病院管理学や病院経営学などを専攻している学者であった。私に言わせれば、この教授は果たして我が国における医療現場の実態をきちんと理解しているのであろうか。
アメリカの病院が積極的に治療成績をインターネットなどで発表するのは、それに対する見返りがあるからである。我が国では少なくとも医師個人にはほとんど見返りはない。特に勤務医にとってはよけいな仕事が増えるだけである。
インターネットで優れた治療成績を発表したとしよう。それを見た患者がその医師の診察を受けるためにどっとおしかけるであろう。患者は治療成績のいい病院または医師にしか興味を持たない。
我が国では、どんなに優れた技術を有する医師が診察しても手術をしても、その料金は医者になりたての研修医と同じである。患者が増えたとしても、給与の面で見返りがあるわけではない。患者の待ち時間は長くなり、看護婦は患者からの苦情の対応に追われる。3時間待ちの3分診療が5時間町の3分診療になるだけのことである。
医師とて人間である。疲れる。睡眠も必要である。時間に追われながら数時間休みなく続く今の病院での外来診療はあまりにも酷である。看護師には昼休みをとる権利が認められているが、医師にはそのような権利は認められていない。
優れた技術を有する医師が報われる制度を構築しない限り、我が国における医療の将来は暗い。医師のモラルだけに頼ろうとする現在の我が国の風潮を私は憂える。
[追記]
インターネットは、医療機関が独自に公開している治療症例数や手術死亡率などの情報を入手する有力な手段となっている。医療法は、治療成績や医師の略歴、病院の治療方針、経営実績などを広告することを禁じている。インターネットや書籍は「利用者の自発的な意思により検索してみるもの」であることを理由として、医師法の広告規制の適用外になっている。
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